近代建築の三大巨匠、ミース・ファン・デル・ローエの建築作品と彼の生涯についての紹介になります。
20世紀の建築界に革命をもたらした人物、ミース・ファン・デル・ローエ。
その名を聞けば、ガラスと鋼の傑作で知られる彼の作品が思い浮かぶかもしれない。
今回は、この偉大な建築家の生涯と、彼が残した遺産に迫ります。
「Less is more More is less」(より少ないことは、より豊かなこと、より多いことは、より貧しいこと)
「Good is in the detail(神は細部に宿る)」
ミースがが残した名言でもあり、彼の功績や考え方は、建築だけでなくインテリアの世界も含め多くのえいきょうを与え続けています。
ミース・ファン・デル・ローエ(本名:ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ)は1886年にドイツで生まれました。
彼は伝統的な職人の家庭に育ち、若くして家具制作と建築の基礎を学び、この時期が、後の彼の建築哲学とデザインの独自性の基盤を形成したとも言われています。
世の中の芸術に多く影響を与えた芸術学校「バウハウス」の最後の校長も務めていましたが、バウハウスの閉校に伴い、キャリアの途中からはアメリカに亡命し活躍されています。
ユニヴァーサルスペースの提唱と、ガラスによる曲線と鉄骨による空間成形のスタイルを確立、近代建築の巨匠の仲間入りしています。
ミースは1969年に亡くなりましたが、彼の遺産は現代建築に深く刻まれています。
彼の簡素で機能的なデザインは、現代の建築家やデザイナーにとって引き続き影響力を持ち続けていますます。ミース・ファン・デル・ローエは、私たちの住む空間に対する見方を変えた男として、今もなお記憶されています。
この記事では、彼の卓越した業績、革新的なアイデア、そして彼の遺産焦点を当てて、また建築の哲学と影響を探ります。
ミース・ファン・デル・ローエが提唱したユニヴァーサルスペースという概念
「ユニヴァーサルスペース」はモダニズム建築の考え方の一つで、「内部の空間に制限を作ることなく、自由に使えるようにする」という概念。
その当時はレンガや石造りで壁を作り、厚い間仕切りで部屋を区切られていたと言われています。
その後、鉄骨造やRC造の技術の進歩も伴い、柱・天井・床の構造の特徴を生かしながら、自由度の大空間を作れるようになりました。
イリノイ工科大学クラウンホール(1956年)を皮切りに、ユニヴァーサル・スペースが広まったと言われています。
*ミース本人は「クリア・スパン構造」と呼んでいます。
後にミースが万国博覧会のために設計した「バルセロナ・パビリオン」が、ユニヴァーサルスペース・モダニズム建築の傑作として評価されています。
現在の事務所建築やオフィスビルなどの空間も、自ずとユニヴァーサルスペースの影響をもとに考えられています。
ミース・ファン・デル・ローエが残した建築作品
ファンズワース邸
ファンズワース邸は、20世紀のモダニズム建築を代表する作品の一つとして広く認識されています。
ミース・ファン・デル・ローエによって設計され、1951年に完成したこの邸宅は、その白さと純粋な自然環境との完璧な調和で知られています。
8本の柱で構成され、四方わガラスで覆われており、地面から浮き上がった床スラブの上には、センターコア以外に仕切りもない空間が存在しています。
透明性と浮遊感が特徴的なこの住宅は、外部環境と一体化しております。
四季の変化を室内から楽しむことができ、ミースの「less is more(より少ないことは、より豊かなこと、より多いことは、より貧しいこと)」の哲学が具現化された作品で、必要最低限の構造と素材使用によるシンプルさが際立っています。
周りの自然環境と、白く包まれたファンズワース邸が、何とも言えない雰囲気を漂わせており、今も多くの人を引き付けています。
ファンズワース邸は、野球の著名な医師であったエディス・ファンズワース博士のために建てられました。
施主であるファンズワースとは、予算と機能面で訴訟になったりと色々ありますが、今も究極の週末住宅として現存してます。
この空間形成こそが、後のイリノイ工科大学クラウンホールなどにも採用され、ミースの基本的スタイルとして確立された建築でもあります。
トゥーゲントハット邸
ファンズワース邸と同じく、トゥーゲンハット邸も、ミースが設計したモダニズム建築の中でも原点とも言われている作品です。
トゥーゲントハット邸は、近代建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエによって設計され、1930年にチェコスロバキア(現チェコ共和国)のブルノに完成した傑作です。
自由な空間設計を可能にするために鋼鉄製で建築され、バルセロナ・パビリオンのように、柱は十字型でステンレスの幌がつけられています。
庭に面した外観は、光を最大限取り込むために全面ガラス張りになっており、できる限り指物細工を削減することを考え、大きな板ガラス群が使われています。
チェコの世界遺産にも登録されており、近代建築5原則の内の一つ「自由な平面」をコンセプトに、この邸宅に合わせた家具も揃えられています。
イリノイ工科大学クラウンホール
アメリカのシカゴ州にあるイリノイ工科大学クラウンホール。
1956年に竣工し、ミース本人がイリノイ工科大学の主任教授を務めている時に設計した作品になります。
建築学科の校舎として建設され、外部に柱を計画することにより、ユニヴァーサルスペースの醍醐味とも言える大スパン空間を実現している作品になります。
この建物は、透明性と開放感を重視しおり、ガラス張りの壁や広々としたオープンスペースが特徴で、これにより、学内外のコミュニティ間のコラボレーションと対話を推進します。
多くの学生たちにより、カンファレンス、セミナー、ワークショップ、その他多くの学際的なイベントの会場としても使用され、学内外の人々を引き寄せる文化的ハブとしての役割を果たしています。
イリノイ工科大学のクラウンホールは、その先進的なデザインと学際的なアプローチで、21世紀の教育の未来を作り続けています。
シーグラムビル
シークラムビルディングはアメリカのニューヨークにあるモダニストスタイルと特徴的な外観で知られている超高層建築物です。
ミースがアメリカに亡命してからの作品であり、ミース・ファン・デル・ローエとフィリップ・ジョンソンの共同設計によって建築されており、38階建て、高さは156.97m。
アメリカ合衆国国家歴史登録材に指定されています。
シーグラム・ビルディングは、建築の在り方に多大な影響を与え、ニューヨークの地域指定条例が、それまでの斜線規制から容積規制へと、建築規制を変えるきっかけを作ったとも言われています。
装飾関係を省き、バランスを重視した、世界に通用するインターナショナルスタイルという形を新たに表現しています。
バルセロナ・パビリオン
バルセロナ・パビリオンは、1929年にバルセロナ万国博覧会のドイツ館としてミース・ファン・デル・ローエが設計しました。
バルセロナ・パビリオンは、モダニズム建築の金字塔とも言える存在です。
この斬新な作品は、ミース・ファン・デル・ローエの天才性が如く表れていて、今もなお、世界中の建築家やデザイナーにインスピレーションを与えています
博覧会終了後に取り壊されましたが、ミース・ファン・デル・ローエの生誕100周年に当たる1986年に、博覧会当時と同じ場所に復元されました。
現在はミースの記念館として開放されています。
バルセロナ・パビリオンは、究極まで削減ぎデザイン落とされたシンプルさが特徴です。ミースは大理石、ガラス、鋼を使用し、空間と構造の間の既存の境界を解消しました。
空間を緩やかにすることで、視覚的な広がりと開放感をもち、空間構成もどこかトゥーゲンハット邸に似ています。
ミースのインテリアの代表作である「バルセロナチェア」はこの館のためにデザインされています。
ベルリン国立美術館・新ギャラリー
1968年にミース・ファン・デル・ローエによって設計され、新たに開館した「ベルリン国立美術館・新ナショナルギャラリー」
静養の彫刻や絵画を中心に展示されており、ファンズワース邸のように外周部に8本の柱がそびえ立ち、全面ガラス張りの外観が強烈な個性を表現しています。
ミースのデザインは、美術館の展示の構成や空間の利用法に革新をもたらしました。
ミース・ファン・デル・ローエの先進的なビジョンは、美術館が持つ多様なコレクションを、訪問者が新しい視点から体験できるように変えました。
彼の伝統は、現代の美術館が芸術を展示し、パブリックと交流する方法に関して、重要な要素となっています
ファンズワース邸が「白」に対し、ベルリン国立美術館は「黒」を基調としているため、その対比も、ミースの作品の楽しみ方の一つとも言えます。
ミース・ファン・デル・ローエの思想と建築作品。「Less is more 少ないほど豊かである」 まとめ
今回は、近代建築の三大巨匠の一人、ミース・ファン・デル・ローエについて紹介しました。
世界的に活躍されていた建築家は、独創的であり、どこか共通するような部分も持ち合わせています。
昨今の技術が進歩するにつれ、彼らの功績や与えた影響は測りしれないものだと感じます。
次回はミースのインテリアの作品などを集めた記事をUPします。